書斎ごもりのしゅんが誕生した経緯をお話します。


「ビジネス」を知った日

まずはなぜ僕がこのビジネスをやっているか
お伝えしていきます。

幼少期、

やりたいことが得無い
理屈っぽいひねくれ者でした。

退屈な人生。
「まぁ人生なんて、普通に生きて死ねればいいでしょ。」
くらいに思っていました。

ビジネス知ったきっかけは、
中学時代通っていた、近所の床屋さん。

僕は公務員家系に育ったため、
普通にどこかに入って働くという選択しか
頭にありませんでした。

いつものように、髪を切りに行く。
床屋のおじちゃんとの他愛もない会話。

床屋のおじちゃん:「権利収入ってのがあるんだよ。知ってるかい?」

僕:「なんですかそれ?」

床屋のおじちゃん:「駐車場とかマンションとかってオーナーさんがいてね。働かなくても権利でお金がもらえる。そういう物があるんだよ。」

僕:「へ〜、すごいですね!」

床屋のおじちゃん:「今後は日本もどうなるかわからないからね、そういう勉強もしておいた方がいいよ。」

その後、

ちょっと調べてみるもよくわからなくて、

自分には縁の無いもの思って
学生生活を普通に過ごしました。

家族が全員AB型ということあってか、

凡人っぽくもなければ、
そこまで天才的に秀でた才も特にない少年というような感じです。

学校の始業式で
表彰されている人が羨ましい。

ただ、
僕には多少運動神経がいいくらいで、

他には、ないもない。

だからこそ


中くらいの安パイな人生。

これくらいが丁度いいとか思いながら
特に不自由なく、のほほんと生きていました。

割と程よいスタートを切った

とはいいつつも、

小学、中学と
少しだけ街から離れた、田舎に育ったため
ちょっとできれば、周りからはチヤホヤされました。

そのため秀でた際はなきものの、

通知表は5段階評価で平均評定4.6くらい。
通知表に3以下をつけられることがなかった。

中学では、未経験からサッカー初めて、
1年生で中体連の大事な試合に出場。
2年でホワードとしてレギュラーに。
3年になり、部長。背番号10番。

試合でハットトリック。

着眼点が少し変わっていた僕。

女の子の髪ツヤ、
ノートの(スレ具合、角、文字)
上靴の綺麗さ、踵のヘタリ、
モノの置き方座るときの姿勢、
スカートのシワなどから

女子力が高く可愛い女の子を
見抜く目をもっていました。

彼女は割と絶え間なく、
時に、先輩とお付き合いしそうになるくらい。

文武共に好成績を収め、先生に気に入られて
高校進学は学校からの推薦で決定。

割と外面だけ見ると
よくできた人だったと思います。

まさに井の中の蛙大。

ですが、
人生はそう甘くないものです。

高校進学。

僕は、地元で少し有名な進学校に推薦入試で入りました。

これが運の尽きです。

田舎の激ゆるな甘い評価でつけられた
好成績だったため、

入試で合格できるレベルではないのに。

あっさり自分の学力より
断然上の学校に進学していました。

ここからというもの、激動の挫折生活です。

僕は、しっかりテスト勉強しているのに、
勉強せずにゲームをしていた、
クラスメイトより点数がいつも下。

数学のスパルタ教師にあたり、
毎日居残り。

その日出された宿題を
放課後に全問正解しないと帰れない

あげく、ほぼ部活に出られない生活。

結局、中学の頃の功績は虚しく、
一度もレギュラーと取れず
3年間を終えました。



「井の中の蛙大海を知らず」
とは、正にこういうことをいうのでしょう。

僕は高校生活で
多大なる文武両方挫折を味わいました。

非常に痛烈な屈辱。

この頃の記憶が今もまだ忘れられません。
強烈な劣等感を未だに抱いています。

大学受験も大敗。
第一志望の大学には到底届かず。

学力相応の私大に進学しました。

激動の高校生活からぬるま湯な大学生活

大学からは一人暮らしが始まりました。

高校が、厳しい学校だったこともあり、
大学4年間は、楽園です。

高校の数学で、トラウマになり、
僕は文系に進み、大学では法学部に進みました。

そして、進学して1ヶ月後には
彼女ができました。(6年経った今も僕を支えてくれています。)

宿題がない。
テストも大した難しくない。

3年生のうちに
卒業要件の128単位の取得を終えて

高校に比べると楽勝すぎる
大学生活をクリアしました。

この時、環境によって、
周りからの評価は変化することを学びました。

ここまで要するに、

チヤホヤされた小学、中学。
挫折を味わった高校生活。

落ちこぼれなのに、世間からはなぜか評価される
という割と珍しい体験が僕の自我を作り上げていきました。

想起するビジネスという存在

高校では、アルバイトが禁止だったこともあり、
大学にでて初めて、働くということを体験しました。

コンビニ、カフェ、サッカー専門店。
いろいろなバイトやってみて、

このときから少し、
“働くことへの違和感”を覚えはじめました。

実際に社会に出て、
“働く”ということを経験して

あまり考えてこなかった
「社会人になったら、どう生きていきたいのか。」
を考えるようになったからです。

その時なんとなく浮かんだ答えが
「自由で、場所と時間に拘束されずに生きて生きたい。」

というものでした。

この頃は、「だったらいいな。」くらいです。

なにせ、高校で地獄を見ていますから。

人生そんな甘くないことは
分かっていました。

理想と現実は違う。
自分もサラリーマンとして、死んだ魚の眼をして生きていくのかなと、
それとなく受け入れる心構えが少しだけありつつも、

自分はそうはなりたいくない。
という感情が芽生えました。

自らの力で、1円を稼ぐ。

将来自由に時間に拘束されずに生きるためには

と考えた時に

思い出したのが、
学生頃通っていた床屋のおじちゃんの話です。

ここで、思い出しました。

世の中には権利収入というものがあると。

そこで再び調べて、
僕がブログという存在にたどり付きました。

ブログは、記事書いて注目されるようになれば、
放置していても収益をあげてくれる、
ストック型のビジネスです。

実際にやってみたものの、
現実は甘くはありません。

この頃の目標は、
どうにか自分の力で1円を稼ぐこと。

googleアドセンスという
広告を表示してくれる申請を通すことで

自身のブログに広告が掲載されます。
そこでその広告がクリックされたら
報酬が発生するというものです。

必死に取り組みました。

誰も興味を示さない記事を
ひたすら書き続ける。

サイトのテーマやらデザインやら、
検索の上位表示させる方法やら
ひらすら調べて実践していく。

やってるときは楽しかったです。

そしてついに申請が通り、
初収益が発生しました。

これが自分の力で稼いだ初めての体験です。

収益欄に表示された数字を見て、
ものすごい興奮を感じたことを

今でもお覚えています。

ですが、やはり現実は甘くありません。

収益は上がったものの
1円とか10円の世界。

これでは到底生活できないと思いつつも

僕はこの頃から
就職せずに自分の力で
生きていくことを真剣に考えはじめました。

就職orフリーランス

大学に通いながら、
ブログやり始めてすこし経った頃。

ブログ収益が合計1000円くらいに。

僕は母に、
「就職しないでブログ、ビジネスで生きていきたい。」
と告げてみました。

僕の母は、結構甘く
あまり僕を叱ることはありません。

ですが、そんな母が珍しく

「そんなことできるわけが無いでしょ‼
真面目に働くことを考えなさい。
今の若い子は、楽して稼ぐとかに
すぐ引っかかるんだから、頭でっかちになるな!」

と怒られました。

ふてくされながらも、ぐうのねも出ません。
なにせ稼げたのは1000円なのですから。

それからも色々と模索し
他にも、読者のいないメルマガを
必死に書いて

メルマガスタンドの月額費用の3千円を
ただひたすら毎月垂れ流しました。

大学生のころの毎月3千円は結構大きいです。

SEOライターの仕事をやってみたりしましたが、
結局生活できるレベルにはほど多かった。

色々やってはやめて、
やってはやめてを繰り返していた頃。

大学の知人から、とあるセミナーに誘われました。

カモにされる大学生

そこの頃ちょうど仮想通貨が流行り出した頃で、

セミナーで語られていた
よくわからない仮想通貨投資に興味を持ち、

紹介された投資スクール団体のようなものに
いとも簡単に乗せられてしまい、

20万円を支払いました。

そして入金して程なく、
友人らがMLMの詐欺団体だと周りが騒ぎ始め、

自分は騙されたことを知ります。

血の気が引き、顔が青ざめる感覚を
人生で初めて体感した瞬間でした。

自分だけ、大丈夫だろうと
高をくくっていたのが運の尽きです。

猛烈な不安が
押し寄せる日々を過ごしながら、

どうにかならないか
試行錯誤する毎日でしたが、

幸いなことに、打開策を見つけられました。

僕は法学部だったため
民法の先生に恥を偲んで、
助けを求めることができたのです。

そんなこともあり、

ビジネスで痛い目をみて
結果的にほぼ収益が出なかった僕は、

結局、抗う力もなくなり、

フリーランスの道を諦めて
就職という道を選ぶことにしました。

就職と将来性を考えた選択

法学部だった僕ですが、

今後の未来を考えて、
テクノロジーの発達に順応しやすい

IT系の企業を中心に就職活動を行いました。

プログラミングも全然わからない状況でしたが、
大卒の新卒カードの効果もあって、

クラウド関連の企業にすぐに就職が決まり、

大学の単位は3年のうちに全て取得していたため、

早くも、大学4年の夏から
内定先の会社で働きはじめました。

当初は、新しい分野の学習に夢中で
必死取り組んでいました。

「自分は技術者の道を極めていく」と、
強く意気込んでいました。

資格試験も積極的に行い
ITパスポート試験をとり

大学在学中に、
既存社員でも落ちる
AWSの試験を1発で突破しました。

割と積極的に技術者としての道を
進もうと努力していました。

そのかいあってか
自身より上の人の研修を任せて頂いたり

大手の最新技術説明会に部長と2人で行き
社内共有レポートを任せてもらったり

順風満帆に過ごしていたのですが、

正式な入社して実務につくようになってから
「何か違う」そう違和感を感じ始めた矢先、

人生史上最大のピンチが僕に訪れました。

全くやりがいを感じられない

会社という環境に所属して居る自分を
受け入れなくなっていきました。

来る日も来る日も
同じような作業を淡々とこなす。

自分がただの歯車のように感じるようになり、
忙殺とともに、いつしか自身の感情に蓋をするようになりました。

感情に蓋をすると、
傷つくことも減る反面、
楽しいとか、幸せも感じられなくなります。

自分はなんのために
生きているのだろうか。

いつしか、僕の世界から
“鮮やかな色”が消えました。

打ち込まれた鬼のくさび

石の上にも3年。

3年は何があっても
我慢し続けないといけない。

その習わしに従い、
耐えようと続けました。

心が壊れたしまった日

朝、破裂寸前の自身の心。

表面張力でとどまっている水のように
少しの衝撃でこぼれ落ちてしまいそうでした。

そっと動き、支度をする。

朝ごはん
食パンは二口が限界。

食欲がない。

喉を通らない。

ちょっと前まで、
食パン2枚頬張って食べていた自分が
たった2口しか食べられない。

一緒に住んでいる彼女が
僕を心配の目で見つめる。

あと10分したら家を出ようと思い、
最後にトイレに入る。

一人の世界に入ると
不安、絶望、悲しみ。

蓋をしていた感情が
一気に湧きでてきました。

いままでどうにか繋ぎ止めていた
細い糸のようなものが
その時、プツっと切れた。

急に涙が溢れ出した。

しばらく出てこない僕を
心配し彼女が様子を見に来る。

「助けて。」

こんなに切実に助けを求めたのは
人生で初めてでした。


精神的限界。

彼女の支えに従って、すぐに会社に連絡し、
お休みを頂き病院へ行くことにしました。

外に出ると
ただ街を歩いている人、
待合室に座っているような
自分を気にもとめない人達でさえ
敵であるかのような恐怖を感じました。

診断の結果は抑うつ。

僕はそこから会社を休職し、
療養生活に入ることになりました。

うつと戦う日々

療養期間に入る。

嫌なことはたくさん経験した。
高校生活でも地獄を味わった。

今までの学校生活、
集団にそこまで抵抗なく所属できていたため

もしかしたら自分は
少しナイーブになりやすいところがあるかな、
くらいらいにしか気にならず。

僕はどうしてこうなってしまったのか、
理解ができなかった。

早く直したかった僕は、病院とは別で
民間の心理カウンセリングにも行くことにした。

原因を探し本を買い漁る

色々自分で調べたり
カウンセラーの先生に聞いたりして
ようやく原因がわかってきた。

自分はHSPだ。

会社という距離感のある集団的環境が
どうしても自分に合わなかった。

HSP自体、
珍しいわけでもない。

自分より繊細な人だって社会で働いてる。

自分も言い訳せず
働かなきゃいけない。

大人になるってのは
そういうものなんだ。

そう自分に言い聞かせ

2ヶ月間の療養を経て

僕は職場に復帰した

僕が復帰すると
周りの社員が暖かく迎えてくれた。

ものすごい緊張感があったが、
これなら頑張れると思った。

そしてなにより
社会に復帰できたことが嬉しかった。

人間は安心安全の欲求が満たされると

次に社会所属の欲求が出てくる。

自分にもその欲求が芽生えた。

徐々に勤務日数と時間を伸ばして
慣らせたこともあって、

順調に復帰していき
長い時間の勤務にも対応していった。

このまま戻って
なんだかんだやっていける。
そう思っていた。

しかし、現実は甘くなかった。

月日が経つと

慣れとともに、
また、以前に経験した感覚が
襲ってくる。

症状がぶり返し。

お休みをもらったりして
精神を落ち着けてどうにか落ち着かせる。

だか、それでも
収まらないうつ症状。

激しい焦り。
心拍数が上がり体が震える。
得体の知れない恐怖が押し寄せてくる。

息を吸っても酸素が薄い。

日々、どうにか耐えてやり過ごす。

そんな日々を続けていたら

ついに

文字が読めなくなってしまった

パソコンに表示される文字を見ても、
全く内容がわからない。

次、何をしたらいいのかわからない。

石の上にも3年。
3年は続けなければいけない。
耐えろ、耐えろと言い聞かせた結果。

ついに僕は
業務が遂行できない状況まで
悪化してまった。

ドクターストップ。

僕は再び休職することになった。

戻るという「挑戦」をして、
この結果。

ブラック労働を強いられていたわけでもない。
嫌がらせをされていたわけでもない。
仕事も軽くしてもらっていた。

それなのに、この有様だ。

なんと情けないことだろうか。

自分は”普通”の生活がおくれない存在なのだと、
請け負えざるを得なかった。

それからというもの、
症状は悪化していた。

何の活力もわかない、ただ下を向く日々。

自宅で会社とのメールでやりとりをするのですら
1通のメールを作るのに3時間。

送り終わったら
また数時間横たわって動けない。

そんな日々を過ごした。

目の前に突きつけられた実質1択の質問

1ヶ月後、会社の復帰面談。

言い渡された言葉


「うちで働く気ある?」
「やめるかやめないか、決めて。」

短期間で2度目の休職は
基本多くの会社では認められない。

1ヶ月特別に休ませてもらっていた。

1ヶ月で治るわけもなく、
到底戻れるわけない。

戻れは即悪化。
最悪の場合、一生治らない精神疾患を追う。

やめる以外に事実上選択肢がなかった。

23歳にして職を失った。

こんなこと親にも言えない。

頭のネジが外れたかのごとく、
自分ではない誰かがブチ切れ物に当たっている。

会話をしていても
目の焦点があってなかったそうだ。

非常に辛かった。

壊れた心はそう簡単に元には戻らない。

直るには壊れるまでにかかった期間の
倍かかると言われている。

僕の完治に要するのは1年。

初めて人生を賭けに出た

もう後がない。
転職もこの精神状態では厳しいことは
目に見えていた。


どうにかしないと、人生が終わる。

僕は就職以前に目指していた
個人生計を立てる道を目指そうと覚悟を決めた。

色々と調べた。

ビジネス業界は当時
詐欺まがいなものが横行していた。

そんな中で、

看護師をしながらビジネスをやっているという
女性を見つけた。

看護師で女性ということもあって
信頼できそうだと思い、
zoomで話を聞いてみることにした。

話を聞くに、
一番再現性が高そうなやり方だった。

リストマーケティング手法を使った
コンテンツビジネス。

事前に僕が考えていた
個人がマネタイズする上で
これが一番最適かもしれない
というものと手法が一致していた。

看護師の女性は
そのコンサルをしているという。

コンサル費用は60万。

話を聞く当初は全くやるつもりはなかった。


だが、正直どこの話しを聞いても
信憑性に掛けていた状況で

一番信頼できそうな人が目の前にいる。

ここで動かなきゃチャンスがない。

そう思い、
怖さに震えながらも支払うことを決めた。

ぶるぶる震えながら、
クレジットカード番号を入力している時、
彼女が心配して僕の様子を見に来た。

「何してるの?大丈夫なの?」
すごく不安そうで心配した表情でこちらを覗き込む。

彼女は、僕が以前MLMに騙されたときも見ている。

止められたくなかった僕は、
怪訝そう顔をして追い払った。

その後「コンサルに60万払った」と伝えると
彼女は無言で涙を流す。

自分の精神状態も
ただでさえボロボロ。

その上、自分をずっと支えてくれていた
彼女を泣かせてしまう。

本当に心が苦しかった。

でも、
ここで動かないと未来が終わると分かっていて
やめることはできない。

「頑張るから見てて。」
僕はそうとしか言えなかった。

モダンな背水の陣

それからコンサルを付けて
ビジネスを本格的に始めたものの

最初の2ヶ月くらいは鬱状態がひどく
なかなか思うように作業ができない。

ちょっとやったら
数時間横たわらないと動けない日々。

少しずつこなしながら、

ダイレクト・レスポンス・マーケティング、
SNSマーケティング、ライティング、
セールスなどを教えてもらって

経験を積んだ。

その結果。

ひたすらやって

体調が少し良くなり
動けるようになった。

その一ヶ月後。

80万の収益化

今まで積み上げてきたものが
ついに成果として実った瞬間。

23歳にして、職を失い
心身共にギリギリの状態から
ついに開放された。

そして

泣かせてしまった
彼女にも認めてくれて、

本当に頑張ってよかったと
心から思った。

この時、僕は
今まで経験したことのない高揚を感じた。

最近になって気づいた事がある。

僕は一貫していたのかもしれない

僕は自分のことを何をやっても
中途半端な人間だとずっと思ってきた。

だが、それは違った。

僕は、自分という個人の力で
価値を提供し、お金を得ること。

これだけは
絶えず諦めずに考え抜いてきました。

人生で唯一これだけ。

他のことは続けられなかった。

でも、個人でのビジネスだけは
何故か一貫して、誰に対しても主張し、
反対されてもやめなかった。

これをやり抜く力。
グリッド。と言いいます。

自身の能力に
この壮絶な体験をしたことで
気づくことができました。

だいたいのものが売れるようになった

どうすれば集客できるのか
どうすれば売れるのか

仕組みを理解し、再現できるようになった。

売るのが難しい
あまりニーズがないコンテンツも収益化。

Brianで総合ランキングで1位獲ったり

知り合いのビジネススクールにノウハウ提供し、
多くのゼロイチ達成に貢献できた。

高単価の販売も
再現性ある状態までもっていけた。

数十万のコンサルも
定型的に獲得できるようなった。

クライアントの集客改善で
10倍以上集客できるようにしたり、

リピート顧客の獲得や
単価を上げる施策も成功させることできた。

こういった背景から
今まで隠してやらざるを得なかったことも
自身を持って打ち明けられるようになった。

家族に隠してきた退職を告げた。

僕にとって何よりも嬉しかったのは、
身近な家族が認めてくれたこと

壊れた心も完治し、
強く動けるようになった。

マネタイズはできるが不一致に苛まれる

ただ、
僕の中にあった葛藤はまだ消えなかった。

ある程度、技術が成熟してくると、
アカウントやその人の商品の冒頭を見れば、
実力や技量がわかるようになる。

どういったビジネスモデルで
どんな販路を組んでいるかも
想定がつくようになる。

すごく不一致感があった。

「稼ぐ」と「持続的収益化」は別物

単発で稼ぐのは簡単だった。

実は単発でマネタイズする場合は
商品やサービスの中身は関係がない。

一番手を抜けるところといっても
過言じゃないです。

話題を呼んで、よいセールストークができれば
流入させれば一定数が買ってくれるわけです。

葛藤があった

このままやっていけば、自分はマネタイズが
滞りなくなくできることがわかっていた。

同じような手法を使っている人が
常時成果を上げているのは見えていた。

コンテンツ出して、また次を出して、また次。

これでは確実にジリ貧になると思った。

そこから1年間修行にあてた

会員サイトの立ち上げ

表現技術力の向上

流入・誘導設計技術力の向上

200時間近くステップ構築や販売のイロハを学んだ。

信念の確立

僕は稼ぎ方にこだわる道を選ぶ。

自分のプロダクトは売上よりも、価値を届けること

本当に望んでいる人に手にとってもらうことを優先する。

信念:自由に選べる選択肢を増やす

持続的な手法を探した。

自分のような

現代に馴染めない苦しみを感じる人を

救いたい。

その思いでやっている。

マネタイズは手段であり、

選択の幅を広げることが僕の使命だ。

そして僕が今一番救いたいのは、

僕のように現代の生きづらさに
苦しんでいる人達だ。

頭はよくないが、バカではない僕にできること

僕がこの活動をすべき理由がもう一つある。

僕は無意識にできる天才型とは違って、
自分の頭で理解して努力を積み上げて形にしてきた内向型人間。

凡才でありながら
センシティブにキャッチアップする異質体質です。

だからこそ
わからない人、できない人の気持ちもわかるし、

文理を跨いで経験を詰んできた僕は
専門的で難しいことに拒否反応なく見識を深められる。

天才の説明は正直難しくて
普通の人は理解できず拒否反応を起してしまうという声を
何度も耳にしてきました。

静かに。そして強く優しく。

僕の活動ポリシー。

ビジネスの世界は競争であり戦いである。

僕のような内向型の人は
集団社会で生きづらさを感じ

個人のビジネス業界に入ってくる人が多いが、
個人ビジネスにおいてもやはり、
外交的で活発な人が成果を出しやすい。

だが、我々には我々なりの戦い方がある。

静かに戦うこと。
そして優しさを貫くためには、
それを貫くだけの強さが必要。

自己7’sコンセプト

個×テクノロジー

僕は多くの人と関わりながらやると消耗してしまう。

足りないリソースをITテクノロジーを使って補う。

個でも行けるようにする。

よく世の中がこれから
AIに代替されていくと要られていますよね。

これは一見すると
マイナス視されやすいです。

ですが、視点を変えて見ると
テクノロジの発展によって、

今までは多くの人の
力を借りなければできなかったことが、

個人でもできるようになる。
ということです。

普遍的コアプロダクトの持続化

現代の流行り廃りの速度は
著しく早くなってきています。

トレンド的手法はすぐに廃れる。

DevOps:運用視点で商品/サービスを作る

普遍的コアプロダクトの持続化をするには

商品を一度作って放置ではダメです。

僕はエンジニア時代、運用側をやっていました。

そこでつくづく感じたことがあります。

運用観点で開発ができていないこと。

使っていく人が使いにくく、
変化に対応できていない。

世の中のITサービスの開発は、
従来、開発側と運用側に別れていて

開発したら運用側に回すといった
ものが一般的だった。

しかし、時代が進んで、
製品のアップデートが頻繁に行われる様になり

そこで出てきたのがDevOpsという観点だった。

現代のプロダクトはネットに繋がっているため、
日々改良し、進化させていくことができる。

DevOpsの目的は
改善を重ねてユーザーに価値を届けることです。

今の個人コンテンツビジネスの
界隈を見ていると、一度作って売れなくなったら捨てる
ような使い方をしている人が圧倒的的に多いです。

だからこそ
僕はこの個人のコンテンツビジネスにおいても、
作ったプロダクトを使い捨てするのではなく、
DevOpsの観点で改良し続けて顧客に価値を届けることが
重要だと考えています。

顧客第一主義:至高体験を届ける

僕は顧客を第一に考えたビジネスを行う。

ステークホルダーが多いと
どうしても忖度が生まれてしまう。

生殺与奪の権を自分で握りしめる

鬼滅の刃の水柱こと
富岡義勇さんの言葉で有名な

「生殺与奪の権を他人に握らせるな」
という言葉。

SNSも手綱はプラットホーム側が握っている

いかに自身の生命線を他人に任せず自分で握っていくか。
これが今後を生き抜く鍵です。

僕はうつをきっかけに、
生命線の所在の重要性を
嫌というほど感じました。

会社をやめたら自分には何もない。
誰ががいなくなったら回らない。
ご機嫌を取らないと破滅する。

生命線を他者に握られたり、
自分でホールドできていない状況では
安全に生きていけません。

だからこそ、
いかにして自分で自身の生命線を
繰り寄せて、自らの手でギュっと堅く握りしめるか。

これが本当に大事だと思いました。

個人として集団と並列関係を結ぶ

僕は、個人主義です。

ただ、一人孤独に
という解釈ではない。

個人として集団と関わる。

集団のなかの1人として集団に所属するではなく、
あくまでも個と集団して繋がり、属しはしない。

ここに強いこだわりがあります。

少数精鋭スモールビジネス

自身が救いたいと思える人

そして自身を信頼し
ついてきてくれる人にだけ焦点を当てて

集中して価値を届けこと。

僕は、自身の信念のもと
このコンセプトを持って
今後も活動していきます。

最後に

ぜひ今後も、
あなたの頭の片隅に僕を置いて
見ていてほしい。

あなたがもし
僕の力を必要とするのであれば、
全身全霊で答えたいと思います。


最後まで読んでいただき
ありがとうございました。

2件のコメント

成功される方々の大半が壮絶な黒歴史を持っていますが、しゅんさんもそのひとりだったんですね…
私は現在、借金を抱えながらも無職を選び、メンターの元、1日でも早くマネタイズの実現を目指していますが、しゅんさんのコンサルもいずれ受けたく思っています。CUBE、Crystalと本来なら高単価が取れるであろうコンテンツを無償や安価で提供して下さるしゅんさんに応えられるスキルを身につけ、必ずやしゅんさんに有償で教えて頂けるよう、努力していきます。

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shun
1000万超えプレイヤー達のプロダクトマネジメントをやってます。|話題のZ世代|Brain総合1位|9割が見えていない、コンテンツビジネスの昇華技術を継承|Notion を溺愛しています|